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螺旋階段 1


Chapter 2


 話は一週間ほど前に遡る。
 それは学年末テスト最終日のことだった。


「ヤバイかもしんない」
 テスト終了後の帰り道、明日から試験休みに突入するというのに、暗く沈んだ表情の智紀がそう呟いた。
「何やった?」
「数学、全然できてない」
 二人の通う高校では、学年末テストが進級を判断するための重要な資料になる。今までの結果がいくら良くても、ここで赤点を取ろうものなら、容赦なく留年させられてしまうのだ。
「じゃ、帰ったら確認してみるか?」
「お願いしますぅ」
 国公立理系特進クラスの晶久と、私大文系クラスの智紀では、授業の内容も、質も、もちろんテストの内容も全く違う。普段は晶久が智紀の勉強を見てやっている状態だ。
 家に帰り、着替えた智紀は、数学の教科書とノート、テストの問題用紙を持って晶久の家へ上がり込む。勝手知ったる他人の家。年がら年中行き来している上、自分の家と対称的な作りのため、互いの家の何処に何があるのかをほぼ知り尽くしていた。
 晶久の部屋に入ると、晶久も着替えて智紀を待っていた。
 智紀が問題用紙を渡すと、晶久は自分の机に向かい、シャープペンを持って、おもむろに問題を解き始めた。
 彼はほとんど迷うこともなく、レポート用紙にペンを走らせる。その様子をテーブルの横でおとなしく見ていると、智紀は五十分間悩んだにも関らずロクに解けない自分が、ただのバカであるような気がした。あの高校のレベルが全国的にも決して低くないことは、重々承知しているのだけど。
 晶久がふと顔を上げた。
「もう終わったの?」
「いや、喉渇いたから何か持って来て」
「へーい」
 部屋を抜け出し、台所へ。人様の家の冷蔵庫を勝手に開けるのには抵抗あるが、『別宅』のようなここでは、飲み物くらいなら気兼ねしないし、例え互いの親がいたとしても、結局は「ご自由にどうぞ」と言われて自分でやる羽目になる。流しの横にある洗いっ放しのコップを二つ取り、冷蔵庫からウーロン茶のペットボトルを出して注いだ。
 それを持って部屋に戻ると、晶久は智紀の持ってきた教科書をペラペラと捲っていた。思わず問題を覗き込む。
「何、晶久でも解らないのがあんの?」
「いや、そうじゃなくて、どういう解き方してんのかと思って確認。うちのクラス、ここ夏前に終ってるんで」
 智紀は机にコップを置くと、その場にガクリと崩れ落ちた。一般クラスが三学期にやったことを、特進クラスでは既に一学期中に終らせている。それもそのはず。特進クラスは既に、一般クラスの二年の二学期までの過程を、一年生の間に終わらせているのだから。
 智紀は部屋の隅にあった折り畳みの椅子を引っ張り出すと、机の横に置いて腰掛けた。再び走り始めたペン先をぼんやりと見つめ、そのペンの主である晶久の横顔を眺める。気が付くと十五年も眺めていた顔。家族の次に長い付き合いのある相手だ。子供のような丸顔が、すっきりとシャープになったのはいつ頃だったろう。他人から「深谷くんって、何考えてるか分からない」と言われることも少なくないが、智紀にとっては一番理解しやすい人間だった。
 少し伸びてきた前髪を邪魔そうに掻き上げながらため息をついた晶久の、襟足に手を伸ばしかけた瞬間……。


 カタン。


 シャープペンが転がった。ビクッと体を震わせ、手を引いて晶久を見ると、レポート用紙と問題用紙を見比べていた。
「んー……三十点くらいは取れてるんじゃない? 埋まってる部分は八割方間違ってないよ」
 智紀はレポート用紙を覗き込む。流して書いたはずなのに綺麗な文字。いつもの晶久の字だ。
 問題用紙の隅にメモした自分の答えと、晶久の答えを見比べると、確かに埋まっている部分はほとんど間違えていなかった。
「解答途中の部分も、途中までは合ってるから、部分点が付くだろ。…………多分。俺なら付けるけどな。中原先生って、部分点付ける方?」
「あ、うん。問題ごとに『ここまで解けてれば何点』っていう感じでくれるよ。『自分が文系教科は得意じゃなかったから、文系の人間に数学押し付けるのも気の毒だから』って」
 三十点取れていれば、まあ、何とか赤点は免れそうだ。智紀はホッと安堵のため息をついた。
 晶久がコップに手を伸ばし、一口飲んだ。その横顔をじっと見ていると、晶久が怪訝そうな顔をした。
「……なんだよ」
「いや、どういう頭の構造になっているのかと思って……」
 智紀が現在、勝っているものといえば、運動神経と体力くらいなものだ。小学校時代に勝っていた身長でさえ、中学に入ってから抜かされた。現在、百七十一センチと、百六十九センチ。見た目には大差なくても、数字にするとその差は三センチ。明確な差が出てしまう。実のところ、体格どころか体力的な部分もその差は微妙な気がする。小学校三年まで同じ空手教室に通っていたので、動きがいいのは確かなのだ。ただ、晶久は先にやめてしまったのだが。
「あれ? そういえば、お前、何で空手やめたんだっけ?」
 智紀の頭の中を知る由もない晶久は、目を丸くし、すぐに呆れた顔をした。
「突然、何を言い出すんだか……」
「いや、ふと思い出したんで」
 晶久は不意に立ち上がり、一つ伸びをすると、頭を掻きながら、背後のベッドに腰掛けた。
「俺がやめたの、何年の時だっけ?」
「小三の秋だったと思うけど」
「じゃ、中学受験を考えた頃だな」
 ゴンッ。
 智紀の頭が机に激突。その光景を晶久は指を差して大笑いした。
 確かにその後、彼は塾に通い始めた。しかし、晶久の八つ上で双子の兄達が、どちらも私立大に入った上、片方は京都に行ったので、「金が掛かり過ぎる」ということで、結局中学受験はしなかったのだ。どうやらその頃から既に頭の中身が違っていたようだ。
「せーしゅん時代は遊ぶもんだよ、晶久くん」
「智紀の奇怪な行動で、充分楽しませてもらってます」
 顔を上げた智紀は、複雑そうな表情。
「……俺はオモチャか、珍獣か?」
 晶久がチッチッチと人差し指を左右に振った。
「『見世物』でしょう」
 すっと立ち上がった智紀は、ベッドに腰掛けた晶久に「とうっ!」と体当たりする。二人は笑いながら晶久のベッドに転がった。
 体格だけは大人と大差ない男二人がじゃれている姿は、可愛くも何ともない。親が見たらきっと「いい歳して……」と呆れるだろう。しかし、二人の心の中では、小さい時のそれと大差なかった。
「トモ、重い〜」
 仰向けに倒れた晶久の上に、うつ伏せになった智紀の体が半分乗っていた。晶久は智紀を退けようとするが、体の上で伸ばされた智紀の腕が、晶久の背中の下へ回り、抱き締めるような格好になった。
 次の瞬間、「あれ?」と智紀が首を傾げる。
「お前、ちょっと痩せた?」
 なんだか少し細くなったような気がする。
「テスト中は体重落ちるよ」
 まあ、特進クラスのテストだもんなぁ、と智紀は納得していたが、そうではないのは晶久の方だった。
「なんで俺の体格の変化をお前が知ってるんだよ」
 智紀は上半身を起こし、ニッコリ笑った。
「晶久のことなら、何でも知ってる」
「気色悪いな」
「いつも見てるから」
「そりゃ、まあ、年がら年中顔合わせてるし……」
「好きだし」
 晶久が黙り込んでしまった。智紀は彼の額を指で弾いた。
「ちょっと、聞いてるか?」
 晶久はいつもと様子の違う智紀の、その真意を測りかねていた。その言葉に、確かに何か違う空気を感じるのだ。それが怖かった。
「聞いてるけど……」
 顔は笑っているけど、目が笑っていない。普段は顔で演技ができるような奴ではない。考えていることが、すぐ顔に表れてしまうのに、今は全く分からない。
 晶久がさりげなく顔を逸らしたが、智紀はその顎を掴んで自分の方へ向けた。それでも晶久は視線を合わせないように目を逸らした。
「何で目を逸らす?」
「何か……怖い……」
 そう呟いて、不意に合ってしまった視線。晶久が見た彼の顔はもう、笑っていなかった。真っ直ぐに晶久を見ていた。「見られている」というよりも、「突き刺さる」ような視線。
 晶久は怖くなって、智紀を突き放して起き上がろうとした。しかし、力で押さえつけられて、起き上がれなかった。
「……なんだよ」
 一刻も早く、この雰囲気から解放されたかった。しかし、どうしたらいいのか分からない。
「言いたいことがあるなら、さっさと言えよ」
「好きだ」
 臆面もなく即答。晶久は自分の言った言葉を後悔した。そして何事もなかったかのように繕うために笑おうとするが、できなかった。自分でも笑顔が引きつるのがわかる。
「……なんだよ、それ……」
「そのものの意味だよ」
「俺もお前のこと、嫌いじゃないけどさ……」
 だけど……。
「晶久の『嫌いじゃない』と、俺の言ってる『好き』は、多分、意味が違う」
 それは分かっている。無意識に。
「言い方変えようか」
 聞きたくないっ。
 晶久が目を閉じて、智紀を押し離しながら顔を背けた。しかし、智紀はその耳に囁く。
「愛してる」
 耳に吐息が吹きかかり、背筋にゾクリと何かが走った。悪寒とも違う、「何か」。
 両手で耳を塞ぎ、「聞きたくない」と叫ぶが、智紀の吐息がその手に掛かる。そして唇が触れた。
 全身を強張らせた晶久の首筋に、智紀の吐息を感じた。柔らかい唇がそっと撫でる。余計身を縮込ませた晶久の体を背中から強く抱き締めた。
「離せっ……」
 耳から手を外し、智紀の腕を解こうとするが、外れなかった。その間にも、智紀の唇は首筋を伝い、開放された耳に歯を立てた。
「……っ……」
 ベッドに転がったまま、晶久は為す術もなく、ただ、もがき続ける。智紀の唇の動きに、吐息に、時折体を萎縮させ、頬を染める。その顔を見られまいとして顔を背けようとするが、智紀に顎を掴まれ、熱を持った頬に唇が触れる。
「……友達じゃなかったのかよっ……」
 晶久の搾り出すような声に、智紀が鼻で笑った。体を解放されたと思った次の瞬間、仰向けに押し倒され、その上に智紀がまたがり、両腕を押さえつけられてしまった。
「ただの友達なんか嫌だ。我慢できない」
 そう言った智紀の顔は笑っていなかった。真っ直ぐに晶久をみつめ、そして顔を近付ける。晶久は顔を背けるが、智紀の濡れた舌が彼の渇いた唇をなぞった。歯を食いしばり、唇を固く結んで割らせまいとするが、それを気にする様子もなく、智紀はミルクを飲む子猫のように、晶久の唇を舐めていた。
「考えもしなかっただろう。もう、随分前からこうしたかっただなんて」  全身に力を入れすぎて、感覚が麻痺しつつあった。体中が心臓になったかのように脈打つ鼓動。頭の中も混乱していた。何がどうなっているのかわからない。何故、智紀はこんなことをしているんだろう。何故、友達のままじゃいけないんだろう。誰よりも「親友」だと思っていた。無条件に信じられる、特別な存在だったのに。
 智紀の舌が顎に触れた。唇が形をなぞる。そしてそのまま首筋へ。歯を立てられて、痛みに顔をしかめる。フリースのファスナーが下ろされる音がした。両手が解放されたにも関らず、感覚がない。今も押さえ付けられているかのような重さを感じた。どうやって動かしたらいいのか分からなかった。
 シャツのボタンが一つずつ外される。胸元に風が吹いた。Tシャツを捲り上げられ、ウエストに智紀の冷たい手の体温を感じた瞬間、晶久の心を恐怖が支配した。
「……ちょっ……やめっ……」
 智紀の腕を無意識に掴むが、それは止められなかった。手のひらが素肌の上を滑り、胸元で指が遊ぶ。触れるか触れないかの微妙な加減で撫でられ、突付かれ、抓まれる。空いている手でシャツをたくし上げられ、もう片方を舌が舐めた。
「……ぃ……っ……」
 「嫌だ」と言いたいのに、声が出ない。「やめろ」と突き放したいのに、体が言うことを聞かない。それどころか、自分の知らない、「もう一人の自分」が意識を支配しようとしている。声を奪い、自分の意思とは関係のない声を上げようとしている。
 胸元に幾度となく歯を立てられ、臍の窪みを舌がなぞると、その度に無意識にビクッと体が痙攣する。智紀の頭を掴んで引き離そうとするが、力が入らなかった。
 ジーパンの前に手が掛けられた瞬間、晶久は身をよじったが、智紀の唇が背中に移っただけで、ボタンは外されてしまった。隙間のできたウエスト部分から中へと手が忍び込む。
 足にまたがる智紀の、熱いものを感じた。
 下着の中へ手が入り、谷の始まりに指が触れたと同時に、晶久は上半身を起こし、あらん限りの力を込めて智紀を突き飛ばした。
「……っ……やめろっ!」
 智紀は壁に頭をぶつける直前で身を止め、無表情で晶久を見た。
 晶久の目から涙が溢れた。
「……なんでだよ。どうして……」
 フリースの袖口で涙を拭うが、次から次へと溢れてくる。みっともないから止めたいのに止まらない。
 手を伸ばして近付いてきた智紀に、傍にあった枕を投げ付ける。
「近寄んな、バカっ!」
 それでも智紀は傍に寄り、暴れる晶久を抱き締めた。
「離せよっ!」
「嫌だ」
「お前なんか…………大嫌いだっ!」
 晶久が振り絞るように叫んだ一言に、智紀は身を離す。そして、晶久の部屋から出て行った。
 一人になった晶久はベッドにうずくまり、ただただ泣きつづけた。


 それから一週間、晶久は智紀と顔を合わせなかった。
 毎日のように行き来していたのがピタリと止まった。テスト返却で登校する日の朝も、いつもの時間をずらし、晶久は声も掛けず先に家を出た。
 鏡の前に立つのが苦痛だった。智紀が首から胸、腹に付けたアザのような跡が消えるまで四日掛かった。鏡に映った自分が別人のようで怖かった。
 ただ無心になりたくて机に向かった。しかし、ふとした拍子に突然、あの瞬間を思い出す。
 鼓動が早くなり、呼吸が荒くなる。体温が上がり、智紀の手の冷たさを思い出した。
 自分の胸倉を掴み、「しっかりしろ」と頭を振る。


「智紀は裏切ったじゃないか……」


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