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螺旋階段 1


Chapter 1


 駅から線路沿いの道を進むと間もなく、右手に道幅の広い上り坂が見える。左カーブの緩やかなその坂を登ると、道はまた平坦になる。
 しかし、すぐに再び坂が現われる。今度の坂は傾斜角二十五度を誇る急なもの。手前の坂は五度程度であることを考えると、目の前に現われたそれは、まるで壁のように感じる。
 近くにもう少し緩やかな坂があるので、そちらへ迂回する人も多い。バス路線もその道だ。そのため、車の交通量は多くない。
 近くにある中学や高校の運動部が時々ランニングに使ったり、自動車教習所が路上講習で坂道発進の練習に使ったりと、これはこれでなかなか使い道があるらしい。競輪場がある隣りの市に住んでいたとある競輪選手が、この坂のためにわざわざ近所に引っ越してきたというのは、この辺りでは割りと有名な話だった。
 螺旋階段のあるマンション。
 それは、この坂を登り切ったところに建つ十五階建てのマンション。この辺で一番高い丘の上にある、一番高い建物だ。十五年ほど前に建てられたそれは、十キロ先からでも見ることのできる目印のような存在だった。
 そしてそれは、彼らの育った「家」だった。


 早春のまだ肌寒い風の中、彼は駅前の駐輪場から乗ってきた自転車をいつもの坂の前で降り、ふと前を見ると……。
「バカがいる……」
 坂の中腹に自転車に跨った人間が一人。頑張っている様子は遠目からでも分かるのだが、前進している気配がない。
 同じ制服、見覚えのある背中に見覚えのあるシルバーの自転車。紺のダッフルコートが見当たらないが、多分、鞄と一緒に籠の中なのだろう。物心付く頃から同じマンションで暮らす、お隣さん、兼、幼馴染み。
 競輪選手のように、よほど脚力に自信がなければ、この坂を自転車で登るのは難しい。自転車を降りて引いていった方が、明らかに早いのだ。
 目の前の「バカ」は確か、一本前の電車に乗ったはずだから、十分は早くたどり着いたことになる。まだここにいるってことは……。
 登り馴れた坂を自転車を押して上がり、ヤツの隣りに並ぶと、ヤツは「あっ」というような顔をして、次の瞬間、嬉しそうに笑った。その笑顔に彼は異常なほど腹が立ったので、思わず自転車ごと蹴り飛ばしてやった。


「うわあぁぁ……」


 ガッシャーンッ!


 バランスを崩したヤツは、自転車に乗ったまま坂道を五メートルほど滑り落ちた。彼がそのまま無視して坂を登ると、すぐに自転車を降りたヤツが追い駆けてくる。
「何、不機嫌撒き散らしてんだよ」
「別に」
 パンパンと制服の砂埃を払いながら、ヤツは隣に並んだ。どうやら自転車を漕ぐことを諦めたようで、彼と同じように押している。
「まだ怒ってんのかよ」
 その言葉に、彼の目付きが鋭くなった。
「誰のせいだ、誰のっ!」
 蛇に睨まれた蛙のごとし。ヤツはその恐怖に、一瞬、その場に立ち尽くした。
「でも……俺が謝ることじゃないし……」
「謝って済むことなら、とっくに事は終わってるわっ!」
 何とも不思議な会話である。片方は謝ることではないというのに、もう片方は怒っている。それも強烈に。
 坂を上がりきって、マンションの敷地内へ。彼が先に自転車置き場へ自転車を止め、エントランス内へ入ると、ヤツが走ってついてきた。ポストを覗き、入っていた郵便物やチラシを取って、エレベーターで十二階に上がった。その間、二人は一度も口を聞かなかった。
 十二階の西の端、一二一六号室が彼の、一二一五号室がヤツの自宅だった。共に両親共働きのため、昼間は家にいない。鍵を開け、ドアを開けると、彼は何も言わずに家へ入った。
 カチャリと鍵の掛かる音を聞きながら、ヤツは思った。


 ……相当怒っているらしい……。


 彼―――深谷晶久(あきひさ)と、ヤツ―――藤田智紀(とものり)の間には、今、微妙な感情が入り乱れていた。
 物心付く前から隣同士で、同い年のため、常に一緒にいた。保育園、小学校、中学校も当然一緒。挙句の果てには、晶久が私立の高校を受験すると知って、智紀は「絶対安全圏」だった公立を捨て、出願二週間前だというのに「確率六割」だったその高校に希望を変えたほどだ。
 クールな晶久と、お調子者の智紀。性格こそ違っていたが、互いのことは解かっているつもりだった。意見が食い違ってケンカをしても、お互いを解かっているから許せたのだが。
 今回ばかりはそうもいかなかった。



Chapter 2


 話は一週間ほど前に遡る。
 それは学年末テスト最終日のことだった。


「ヤバイかもしんない」
 テスト終了後の帰り道、明日から試験休みに突入するというのに、暗く沈んだ表情の智紀がそう呟いた。
「何やった?」
「数学、全然できてない」
 二人の通う高校では、学年末テストが進級を判断するための重要な資料になる。今までの結果がいくら良くても、ここで赤点を取ろうものなら、容赦なく留年させられてしまうのだ。
「じゃ、帰ったら確認してみるか?」
「お願いしますぅ」
 国公立理系特進クラスの晶久と、私大文系クラスの智紀では、授業の内容も、質も、もちろんテストの内容も全く違う。普段は晶久が智紀の勉強を見てやっている状態だ。
 家に帰り、着替えた智紀は、数学の教科書とノート、テストの問題用紙を持って晶久の家へ上がり込む。勝手知ったる他人の家。年がら年中行き来している上、自分の家と対称的な作りのため、互いの家の何処に何があるのかをほぼ知り尽くしていた。
 晶久の部屋に入ると、晶久も着替えて智紀を待っていた。
 智紀が問題用紙を渡すと、晶久は自分の机に向かい、シャープペンを持って、おもむろに問題を解き始めた。
 彼はほとんど迷うこともなく、レポート用紙にペンを走らせる。その様子をテーブルの横でおとなしく見ていると、智紀は五十分間悩んだにも関らずロクに解けない自分が、ただのバカであるような気がした。あの高校のレベルが全国的にも決して低くないことは、重々承知しているのだけど。
 晶久がふと顔を上げた。
「もう終わったの?」
「いや、喉渇いたから何か持って来て」
「へーい」
 部屋を抜け出し、台所へ。人様の家の冷蔵庫を勝手に開けるのには抵抗あるが、『別宅』のようなここでは、飲み物くらいなら気兼ねしないし、例え互いの親がいたとしても、結局は「ご自由にどうぞ」と言われて自分でやる羽目になる。流しの横にある洗いっ放しのコップを二つ取り、冷蔵庫からウーロン茶のペットボトルを出して注いだ。
 それを持って部屋に戻ると、晶久は智紀の持ってきた教科書をペラペラと捲っていた。思わず問題を覗き込む。
「何、晶久でも解らないのがあんの?」
「いや、そうじゃなくて、どういう解き方してんのかと思って確認。うちのクラス、ここ夏前に終ってるんで」
 智紀は机にコップを置くと、その場にガクリと崩れ落ちた。一般クラスが三学期にやったことを、特進クラスでは既に一学期中に終らせている。それもそのはず。特進クラスは既に、一般クラスの二年の二学期までの過程を、一年生の間に終わらせているのだから。
 智紀は部屋の隅にあった折り畳みの椅子を引っ張り出すと、机の横に置いて腰掛けた。再び走り始めたペン先をぼんやりと見つめ、そのペンの主である晶久の横顔を眺める。気が付くと十五年も眺めていた顔。家族の次に長い付き合いのある相手だ。子供のような丸顔が、すっきりとシャープになったのはいつ頃だったろう。他人から「深谷くんって、何考えてるか分からない」と言われることも少なくないが、智紀にとっては一番理解しやすい人間だった。
 少し伸びてきた前髪を邪魔そうに掻き上げながらため息をついた晶久の、襟足に手を伸ばしかけた瞬間……。


 カタン。


 シャープペンが転がった。ビクッと体を震わせ、手を引いて晶久を見ると、レポート用紙と問題用紙を見比べていた。
「んー……三十点くらいは取れてるんじゃない? 埋まってる部分は八割方間違ってないよ」
 智紀はレポート用紙を覗き込む。流して書いたはずなのに綺麗な文字。いつもの晶久の字だ。
 問題用紙の隅にメモした自分の答えと、晶久の答えを見比べると、確かに埋まっている部分はほとんど間違えていなかった。
「解答途中の部分も、途中までは合ってるから、部分点が付くだろ。…………多分。俺なら付けるけどな。中原先生って、部分点付ける方?」
「あ、うん。問題ごとに『ここまで解けてれば何点』っていう感じでくれるよ。『自分が文系教科は得意じゃなかったから、文系の人間に数学押し付けるのも気の毒だから』って」
 三十点取れていれば、まあ、何とか赤点は免れそうだ。智紀はホッと安堵のため息をついた。
 晶久がコップに手を伸ばし、一口飲んだ。その横顔をじっと見ていると、晶久が怪訝そうな顔をした。
「……なんだよ」
「いや、どういう頭の構造になっているのかと思って……」
 智紀が現在、勝っているものといえば、運動神経と体力くらいなものだ。小学校時代に勝っていた身長でさえ、中学に入ってから抜かされた。現在、百七十一センチと、百六十九センチ。見た目には大差なくても、数字にするとその差は三センチ。明確な差が出てしまう。実のところ、体格どころか体力的な部分もその差は微妙な気がする。小学校三年まで同じ空手教室に通っていたので、動きがいいのは確かなのだ。ただ、晶久は先にやめてしまったのだが。
「あれ? そういえば、お前、何で空手やめたんだっけ?」
 智紀の頭の中を知る由もない晶久は、目を丸くし、すぐに呆れた顔をした。
「突然、何を言い出すんだか……」
「いや、ふと思い出したんで」
 晶久は不意に立ち上がり、一つ伸びをすると、頭を掻きながら、背後のベッドに腰掛けた。
「俺がやめたの、何年の時だっけ?」
「小三の秋だったと思うけど」
「じゃ、中学受験を考えた頃だな」
 ゴンッ。
 智紀の頭が机に激突。その光景を晶久は指を差して大笑いした。
 確かにその後、彼は塾に通い始めた。しかし、晶久の八つ上で双子の兄達が、どちらも私立大に入った上、片方は京都に行ったので、「金が掛かり過ぎる」ということで、結局中学受験はしなかったのだ。どうやらその頃から既に頭の中身が違っていたようだ。
「せーしゅん時代は遊ぶもんだよ、晶久くん」
「智紀の奇怪な行動で、充分楽しませてもらってます」
 顔を上げた智紀は、複雑そうな表情。
「……俺はオモチャか、珍獣か?」
 晶久がチッチッチと人差し指を左右に振った。
「『見世物』でしょう」
 すっと立ち上がった智紀は、ベッドに腰掛けた晶久に「とうっ!」と体当たりする。二人は笑いながら晶久のベッドに転がった。
 体格だけは大人と大差ない男二人がじゃれている姿は、可愛くも何ともない。親が見たらきっと「いい歳して……」と呆れるだろう。しかし、二人の心の中では、小さい時のそれと大差なかった。
「トモ、重い〜」
 仰向けに倒れた晶久の上に、うつ伏せになった智紀の体が半分乗っていた。晶久は智紀を退けようとするが、体の上で伸ばされた智紀の腕が、晶久の背中の下へ回り、抱き締めるような格好になった。
 次の瞬間、「あれ?」と智紀が首を傾げる。
「お前、ちょっと痩せた?」
 なんだか少し細くなったような気がする。
「テスト中は体重落ちるよ」
 まあ、特進クラスのテストだもんなぁ、と智紀は納得していたが、そうではないのは晶久の方だった。
「なんで俺の体格の変化をお前が知ってるんだよ」
 智紀は上半身を起こし、ニッコリ笑った。
「晶久のことなら、何でも知ってる」
「気色悪いな」
「いつも見てるから」
「そりゃ、まあ、年がら年中顔合わせてるし……」
「好きだし」
 晶久が黙り込んでしまった。智紀は彼の額を指で弾いた。
「ちょっと、聞いてるか?」
 晶久はいつもと様子の違う智紀の、その真意を測りかねていた。その言葉に、確かに何か違う空気を感じるのだ。それが怖かった。
「聞いてるけど……」
 顔は笑っているけど、目が笑っていない。普段は顔で演技ができるような奴ではない。考えていることが、すぐ顔に表れてしまうのに、今は全く分からない。
 晶久がさりげなく顔を逸らしたが、智紀はその顎を掴んで自分の方へ向けた。それでも晶久は視線を合わせないように目を逸らした。
「何で目を逸らす?」
「何か……怖い……」
 そう呟いて、不意に合ってしまった視線。晶久が見た彼の顔はもう、笑っていなかった。真っ直ぐに晶久を見ていた。「見られている」というよりも、「突き刺さる」ような視線。
 晶久は怖くなって、智紀を突き放して起き上がろうとした。しかし、力で押さえつけられて、起き上がれなかった。
「……なんだよ」
 一刻も早く、この雰囲気から解放されたかった。しかし、どうしたらいいのか分からない。
「言いたいことがあるなら、さっさと言えよ」
「好きだ」
 臆面もなく即答。晶久は自分の言った言葉を後悔した。そして何事もなかったかのように繕うために笑おうとするが、できなかった。自分でも笑顔が引きつるのがわかる。
「……なんだよ、それ……」
「そのものの意味だよ」
「俺もお前のこと、嫌いじゃないけどさ……」
 だけど……。
「晶久の『嫌いじゃない』と、俺の言ってる『好き』は、多分、意味が違う」
 それは分かっている。無意識に。
「言い方変えようか」
 聞きたくないっ。
 晶久が目を閉じて、智紀を押し離しながら顔を背けた。しかし、智紀はその耳に囁く。
「愛してる」
 耳に吐息が吹きかかり、背筋にゾクリと何かが走った。悪寒とも違う、「何か」。
 両手で耳を塞ぎ、「聞きたくない」と叫ぶが、智紀の吐息がその手に掛かる。そして唇が触れた。
 全身を強張らせた晶久の首筋に、智紀の吐息を感じた。柔らかい唇がそっと撫でる。余計身を縮込ませた晶久の体を背中から強く抱き締めた。
「離せっ……」
 耳から手を外し、智紀の腕を解こうとするが、外れなかった。その間にも、智紀の唇は首筋を伝い、開放された耳に歯を立てた。
「……っ……」
 ベッドに転がったまま、晶久は為す術もなく、ただ、もがき続ける。智紀の唇の動きに、吐息に、時折体を萎縮させ、頬を染める。その顔を見られまいとして顔を背けようとするが、智紀に顎を掴まれ、熱を持った頬に唇が触れる。
「……友達じゃなかったのかよっ……」
 晶久の搾り出すような声に、智紀が鼻で笑った。体を解放されたと思った次の瞬間、仰向けに押し倒され、その上に智紀がまたがり、両腕を押さえつけられてしまった。
「ただの友達なんか嫌だ。我慢できない」
 そう言った智紀の顔は笑っていなかった。真っ直ぐに晶久をみつめ、そして顔を近付ける。晶久は顔を背けるが、智紀の濡れた舌が彼の渇いた唇をなぞった。歯を食いしばり、唇を固く結んで割らせまいとするが、それを気にする様子もなく、智紀はミルクを飲む子猫のように、晶久の唇を舐めていた。
「考えもしなかっただろう。もう、随分前からこうしたかっただなんて」  全身に力を入れすぎて、感覚が麻痺しつつあった。体中が心臓になったかのように脈打つ鼓動。頭の中も混乱していた。何がどうなっているのかわからない。何故、智紀はこんなことをしているんだろう。何故、友達のままじゃいけないんだろう。誰よりも「親友」だと思っていた。無条件に信じられる、特別な存在だったのに。
 智紀の舌が顎に触れた。唇が形をなぞる。そしてそのまま首筋へ。歯を立てられて、痛みに顔をしかめる。フリースのファスナーが下ろされる音がした。両手が解放されたにも関らず、感覚がない。今も押さえ付けられているかのような重さを感じた。どうやって動かしたらいいのか分からなかった。
 シャツのボタンが一つずつ外される。胸元に風が吹いた。Tシャツを捲り上げられ、ウエストに智紀の冷たい手の体温を感じた瞬間、晶久の心を恐怖が支配した。
「……ちょっ……やめっ……」
 智紀の腕を無意識に掴むが、それは止められなかった。手のひらが素肌の上を滑り、胸元で指が遊ぶ。触れるか触れないかの微妙な加減で撫でられ、突付かれ、抓まれる。空いている手でシャツをたくし上げられ、もう片方を舌が舐めた。
「……ぃ……っ……」
 「嫌だ」と言いたいのに、声が出ない。「やめろ」と突き放したいのに、体が言うことを聞かない。それどころか、自分の知らない、「もう一人の自分」が意識を支配しようとしている。声を奪い、自分の意思とは関係のない声を上げようとしている。
 胸元に幾度となく歯を立てられ、臍の窪みを舌がなぞると、その度に無意識にビクッと体が痙攣する。智紀の頭を掴んで引き離そうとするが、力が入らなかった。
 ジーパンの前に手が掛けられた瞬間、晶久は身をよじったが、智紀の唇が背中に移っただけで、ボタンは外されてしまった。隙間のできたウエスト部分から中へと手が忍び込む。
 足にまたがる智紀の、熱いものを感じた。
 下着の中へ手が入り、谷の始まりに指が触れたと同時に、晶久は上半身を起こし、あらん限りの力を込めて智紀を突き飛ばした。
「……っ……やめろっ!」
 智紀は壁に頭をぶつける直前で身を止め、無表情で晶久を見た。
 晶久の目から涙が溢れた。
「……なんでだよ。どうして……」
 フリースの袖口で涙を拭うが、次から次へと溢れてくる。みっともないから止めたいのに止まらない。
 手を伸ばして近付いてきた智紀に、傍にあった枕を投げ付ける。
「近寄んな、バカっ!」
 それでも智紀は傍に寄り、暴れる晶久を抱き締めた。
「離せよっ!」
「嫌だ」
「お前なんか…………大嫌いだっ!」
 晶久が振り絞るように叫んだ一言に、智紀は身を離す。そして、晶久の部屋から出て行った。
 一人になった晶久はベッドにうずくまり、ただただ泣きつづけた。


 それから一週間、晶久は智紀と顔を合わせなかった。
 毎日のように行き来していたのがピタリと止まった。テスト返却で登校する日の朝も、いつもの時間をずらし、晶久は声も掛けず先に家を出た。
 鏡の前に立つのが苦痛だった。智紀が首から胸、腹に付けたアザのような跡が消えるまで四日掛かった。鏡に映った自分が別人のようで怖かった。
 ただ無心になりたくて机に向かった。しかし、ふとした拍子に突然、あの瞬間を思い出す。
 鼓動が早くなり、呼吸が荒くなる。体温が上がり、智紀の手の冷たさを思い出した。
 自分の胸倉を掴み、「しっかりしろ」と頭を振る。


「智紀は裏切ったじゃないか……」



Chapter 3


 晶久は制服を脱ぎ、ネックのセーターに着替えてから台所に向かう。冷蔵庫の奥に野菜ジュースの缶を見つけると、一瞬迷う。「晩飯の料理か何かに使うかな?」と思ったが、結局は「まあ、いいか」と手を伸ばして取り出した。
 終業式後に配られた成績表と、ひと月ほど前にやった全国模試の結果を眺めていると、玄関から「ガタン」と、ドアが揺れた音がした。多分、智紀だろう。残念でした。鍵、閉まってます。
 チャイムが鳴ったが無視。何度か連打されたが、ことごとく無視すると、すぐに静かになった。
 五段階評価で評定平均四.七。学年末テストのクラス順位は十番台。模試の結果は校内で一桁台。全国でもギリギリ百位以内に入っていた。国公立理系クラスではあっても、別に東大やら京大を狙っているわけではないので、こんなもんだろう。この成績で、日々全国順位を競い合うクラスの連中にそんなことを言ったら、ブン殴られるだろうが。
 大切なのは成績じゃない。その結果で、夢が叶えばいいんだから。
 テーブルに成績表と模試の結果を置いて、ベランダに寄った。丘の上の十二階。我が家のリビングからの見晴らしは最高。近くに邪魔する建物もない。遠くまで見渡せるその景色のあちらこちらで、春の気配が感じられた。来週にはきっと桜が満開。
 カーペットの上に転がって、トマトジュースを飲みながら新聞を広げる。テスト中は勉強に集中してしまうために、世情にやや疎くなる。何でもかんでもこなせるほど器用ではないのだ。
 ベランダのほうからガタンッ、と物音がした。音の方向からすると、智紀んちに鳥でも突っ込んだか?
 見晴らしがいいということは、逆に外からも見られているということだ。さすがに室内までは見えないだろうが。十二階の我が家に泥棒が入るはずもない。地上からの高さも相当あるし、外から丸見え。そんな危険を犯してまで侵入してるバカはいないだろう。ハトがベランダにやってくることはたまにあるので、そう考えるのが普通だ。
 しかし、その物音は、隣のベランダから「非常時脱出口」という名の、天井まである一枚の薄い板を、「外」から越えてやってきた。
「……ゲッ……」
 ベランダに姿を現したのは、筒状に丸めた答案用紙を口にくわえた智紀だった。
 新聞も缶もそのままで、慌てて窓に近寄り鍵を掛けようとしたが、一瞬遅かった。このマンションで、六階以上にいる住人のほとんどがベランダの窓に鍵を掛けていない。「ベランダからの侵入者がいるわけがない」からだ。
 咄嗟に逃げようとしたが、入ってきた智紀に腕を掴まれた。
「何故逃げるっ!」
「仕切りを乗り越えて入って来る奴がいたら、誰でも逃げるわっ! バカっ!」
 智紀の「それもそうだな」という納得に、掴まれた腕を振り切って、彼の頭を思いっきり殴った。
「いでっ」
「万が一、手でも滑らせて下まで落ちたらどうすんだっ! ドアホっ!」
 智紀は叩かれた頭を擦りながら文句を言う。
「だったら、チャイム鳴らした時に出ろよ。玄関から入れないから、ベランダ伝ってきたんじゃんかよ」
 その言葉に、晶久はムッとした。智紀の胸倉を掴んで睨む。
「テメー、自分がやったことをもう忘れたわけじゃねーだろな。人のことを強姦しようとしとして、『家に入れろ』だと? そんな危なっかしい奴をわざわざ招き入れるバカが何処にいるんだよ」
 すると智紀は晶久を指さした。
「ホラ。俺、『危なっかしい奴』だもん。ベランダくらい伝うさ」
 この野郎、もう一発殴ってやろうか……と、晶久が拳を上げたその時、「はい、これ」と智紀が掲げたのは、今日返ってきた数学の解答用紙。
 四十一点也。
 ……ちょっと待て。
「私大文系クラスの数学赤点ラインは?」
 胸倉を掴んだまま尋ねた。
「に、二十六点……」
 何のかんのと言いながら、結局安全圏ではないか。
 そう思った瞬間、晶久はあることに気が付いた。もしかして……。
「智紀、テメエ……人のことハメがったな……?」
 智紀の口元がニヤリと笑い、視線が宙を泳いだ。「まだハメてないのに〜」と小声で呟きながら。


 ………………ブチッ。


 晶久の拳が容赦なく振り下ろされたが、それは智紀の両手で止められた。そのまま手首を掴まれ、背中でひとまとめにされると、腕の中へ。「離せ」ともがいてみるが、解放されることはなかった。
「あのさ、とりあえず、弁解というか、話くらいはさせてほしいんだけどな」
 晶久の肩に顎を乗せた智久が、小さく溜息をついた。
「物心ついた頃から、年がら年中顔会わせてた奴に一週間会えないって、結構シンドイのな。また、これが自分にとって特別な人間だからさ……」
「自業自得だろうが」
 晶久の淡々とした言葉に、智紀は苦笑した。
「それは分かってるんだけどね。でもさ、自分にとって特別な存在の相手がいたら、その相手から見た時に、同じように自分は特別な存在になりたいわけよ」
 智紀が言わんとしていることは理解できるのだが、その言葉の先を考えてみると、晶久は素直に頷くことができなかった。
「お前の言ってることは、理解できないこともないけど、それってさ、自分のエゴ以外の何者でもないだろう。相手を自分の思い通りにしたいって感情は幼児性が強すぎるよ。お前は自分の考えが 『ワガママかも……』とか、『相手にとって負担になるかも……』とか考えないのか?」
 急に体が開放されたと思った瞬間、智紀は目の前でヘナヘナと座り込んでしまった。
「それは百も承知なんだけどさぁ。そういうんじゃなくて……」
「じゃ、どういうんだよ」
 晶久のダメ押しに、智紀は頭を抱えて唸っていた。
 彼の言うことはある種の正論。しかし、論破されている場合ではなく、逆に論破しなければならないのだが、口ではいつも敵わなくて……。
 しばらく唸った後、智紀は顔を上げて、「恋愛って何?」と晶久に聞いた。腕組みしながら見下ろす晶久は「俺に聞くか?」と素っ気無く答える。
「初恋くらい終わってんだろ」
「んな昔のことは忘れた」
「それじゃ、初めてヤッた女との話でもいいや」
 次の瞬間、智紀は咄嗟に頭上で腕をクロスさせて頭を守った。すぐ後に、表情一つ変えずに晶久の踵落しが炸裂。制した腕全体にズンッと重みと痛みを感じる。まともに食らったら脳震盪を起こして、しばらくぶっ倒れたままだろう。
「チッ……」
 晶久の舌打ちが聞こえた。
「殺す気かっ!」
「殺るなら先週殺っときゃ良かったぜ」
 ベランダを渡ってきたことを怒鳴り付けた人間とは同一人物に思えない発言だった。どうやら相当怒っているらしい。
 智紀は咄嗟に晶久の脚を取って、カーペットの上に押し倒した。バランスを崩した晶久は、上手く受身を取って頭を守る。そして空いていたもう一方の足を智紀の顔を目掛けて振り回した。
「甘いっ!」
 その足も取り、智紀は一瞬の隙を突いて晶久の両膝の上に座った。これなら上半身を起こすことは出来ても、立ち上がって逃げ出すことはできない。
 智紀は勝ち誇ったような顔をしながら、仰向けに転がる晶久の顔を覗き込んだ。
「恋愛ってさ、結局、自分のエゴじゃねーの? 『ワガママ』だとか、『幼児性』だとか、そんなの当たり前のことでさ。だってそれが『本能』だろ。自分の想いを遂げたいんだからさ」
 晶久は呆れた顔をしながら前髪を掻き上げた。
「偉そうに語る前に、『動物の本能』の正確な意味を考えてみろ。オスがオスに求愛したって、何も残らねぇじゃんかよ。本当に『本能』に忠実な奴が、同性に求愛どころか、発情するかよ」
 智紀はガクリと肩を落とした。そう返されるとは思わなかった。
「ダメだ。やっぱりお前には絶対、口では敵わねぇ」
 ……となると、残る手段は一つである。  智紀は自分のシャツの袖口をたくし上げながら高らかに宣言する。
「実力行使っ!」
 晶久の顔色が見る間に変わった。肘を突いて体を半分だけ起こす。
「ちょっ……マジかよ……」
「マジ」
「それ、一応『強姦』って言うんだぞ。立派な犯罪……」
「お前が警察に行って、被害届を出せば……の話だろ。ただ、今の司法で野郎同士の事が『強姦』の認定を受けるかどうかは知らん。フツーの『暴行』と同レベルで処理されるんじゃねーの?」
 智紀はとんでもないことを平然と言いながら、晶久のベルトに手を伸ばしてきた。晶久はその手を何度も払おうとするが、智紀は一向に諦める気配がない。ベルトに触れる度に、確実に作業を進めていく。
 ウエストが緩くなったと思った時、既にチノパンのボタンまで外されていた。晶久は咄嗟に起き上がり、ファスナーを下ろそうとしていた智紀の両手首を掴む。
「ちょっと待てっ!」
「ヤらしてくれるならいくらでも待つけど」
「そ、それはかなりイヤなんだけど……」
 なかなか視線を合わせようとはしない、晶久の顔は真っ赤だった。
「そ、それ以外の妥協案はないのかっ?」
 智紀は掴まれていた右手を振って手を払い、晶久の顎を掴んで自分のほうを向かせた。それでも尚、彼は視線を合わせようとはしない。その顔はまるで恥らう乙女のようで……。
 何ていうか……スゲー、ヤバイ気分だよ……。
 思わずニヤニヤしながら、智紀は言った。
「じゃ、晶久からキスしてよ。濃厚なヤツ」
 晶久の目が点になった。そして俯いてしばし考え込む。
「それがイヤならヤる」
 晶久が慌てて「分かった」と頷いた。キスで済むなら安いもんだと思ったのだろう。
 一瞬、妙な間があり、晶久の視線が宙をさまよった。そして意を決したような表情をすると、「よしっ」と言って智紀を睨み付ける。
「キスするのに人を威嚇すんなよ」
「好きでやってやるキスじゃないんだから、文句を言うな」
「俺は好きなのに?」
 呆気に取られた隙をついて、智紀が素早く唇を重ねた。互いの唇の感触が妙に柔らかく、奇妙な気分になりながらも、半開きの唇から舌が動き出す。
 互いの前髪が頬をくすぐった。無意識に掴んだ腕に力を感じ、鼻から微かな香料の匂いがした。髪に付けていたムースかジェルの香り。
「んっ……」
 漏れた息はどっちのものだったのか、それを拾い上げたのはどっちだったのか。
 気が付けば、いや、気が付くことすら忘れて、二人はキスに没頭していた。


 小さなため息に雫を乗せて唇を離すと、互いの顔は真っ赤に上気していた。離れていても、体の熱を微かに感じる。触れているところが確かに熱い。
 智紀はうつろな視線を床に落としている晶久の鼻の頭に軽くキスをした。晶久は抵抗することなく、なされるがまま。
「まあ、これからじっくりと……」
 智久の呟きに、晶久が顔を上げた。その顔が引きつっている。何か言いたそうだったが、口を開いたまま言葉が出ない。
「何? 俺の最終目標は晶久と行くトコまで行ってラブラブよ?」
 結局、口ではなく手が出た。
 利き手で頬を思いっきり張られた智紀は、勢い余って吹っ飛んだ。
「いでーーーっ!」
 体を起こし、頬を押さえて文句を言うと、舌に血の味を感じた。今の勢いで口の中が切れたらしい。
 いや、そんなことを気にしている場合ではなかった。『キレてるヤツ』が目の前に……。
 パキリ、パキリと指の関節を鳴らし、引きつり笑いに怒りのオーラを背負って晶久が立ち上がった。
「もう二度とそんなこと言わんように、本気でシメとこうか?」
 その目はかなり本気だった。
「さっきのキスで感じてたのはお前も一緒だろうがっ!」
「やかましい! ツボ突かれたら誰だってその気になるわっ!」
「その気になっても、普通、されるがままだろうっ! 舌まで入れるかよっ!」
 次の瞬間、晶久が真っ赤になって殴り掛かってきた。それが怒っているためではないことは明らかだった。


 なーんだ。本人の性格同様、もっと小難しいのかと思ってた。これは『流れ』に乗せたら、簡単に落とせそうだなぁ。


 智紀はそんなことを考えながら、晶久の『照れの怒り』から逃げ回っていた。


螺旋階段1・END


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